#161. 綱敷行衛天満宮

たまたま通りかかった四之保社跡を訪れ、前回の参詣後気がつけば一枚しか写真を撮ってなかった、文子天満宮元社を4ヶ月ぶりに再奉拝。その後、綱敷行衛天満宮を目指す。距離にして3km。歩けばかなりの距離だが、西大路通りに出て、北野中学校前のバス停から綱敷行衛天満宮のすぐ近くまで乗り換えなし。京都市バスは、なかなか使える。七条御前の交差点を御前通に入ったすぐの角地に綱敷行衛天満宮。小さいながらも歴史を感じる天満宮。覆屋に覆われた本殿は、寛政年間(1789~1801)の建立で、覆屋の間から覗き見ると、神々しさが際立つ。なお、当社は松尾大社の境内外社ということ。

由緒

網敷天満宮・行衛天満宮、弐社に別れ共に西七条村に奉斎せられしを、昭和九年合弁をなし現在地に鎮座したるものにして網敷天満宮に関する古記録によれば付近に高さ数十丈枝葉四方に繁茂し、山の如く見ゆる榎あり世人榎の森と称したり、この森の傍らに広大な菖蒲池あり四季を通し花絶えざる景勝の地たり、乳母文子七条村より出て仕うを以て道真公には白太夫なる者を随えしばしばこの地に遊び、この森を閑静の勝地と称し別荘を建て菖蒲池にて御舟遊あり里人の調進せし網を舟網として、慰みあるいはこの寄船の網を円座としその上に座し詩歌を詠み給いしが里の童これを真似せしかば扨も優しき童なり、それほど我を尊む事なれば我姿を残し置かむと網敷の御像を自ら描きその父子に与えたり、後冤罪のため筑前に下らせ給いても帰洛の勅命なき身の京洛を思いて、先に里人に与えし画像を形見となし榎の森に祀るべしと白太夫に命じて文子に告げらる文子小祠を建てんとせしも公を憚り為し得ず討ち過ぎたりしに或夜夢に「この所に来も身を入るべき宿なし疑わすして我が住居を作るべし」と託宣ありついに一字を建立し榎寺と名づけ広大なる地域を有し霊験顕著なり。(境内掲示より)

菅原道眞を祀る旧村社。綱敷天満宮は洛陽天満宮二十五社の一で、その由緒を「山州名跡志」は「伝不詳、按ズルニ綱敷トハ菅相公筑紫ニ遷リタマフ時、博多ニ於テ船ヨリ上リ玉ヘルニ、御座無フシテ船ノ綱ヲ敷テ御座トナス、此時一夜ニ於テ白髪ト成玉ヘリ、世人其御相好ヲ図シテ綱敷像トモ、一夜白髪ノ御影トモ云フ也、其神像ヲ安置スル故ナル歟」と記す。
行衛天満宮は靱負天満宮とも記され、名称の由来を「山州名跡志」は「此宮ノ前南北ニ通ル路アリ、是ヲ靱負通ト号ス、仍テ号ルナリ」とする。「北野天神縁起」には、天慶五年(九四二)西京七条に住む「賤女にあや子といひける者」に、北野の馬場に社を建てよという菅原道真の託宣があり、しばらく自宅に祀ったが、天慶九年に北野に社殿を移したとあるが、その多治比文子の旧宅にちなんだものと社伝はいう。現在は綱敷天満宮に合祀される。(境内掲示より)

所在地:京都府京都府京都市下京区西七条北東野町4