#116. 天神社(代々木八幡宮境内)

大橋から山手通りを駒場を左手にしながら北進。松濤二丁目の交差点から東大裏の交差点には20数年前の雰囲気がまだ残っている。歩いて山手通りを越え、渋谷まで友人と飲みに行っていたことを思い出す。富ヶ谷を通り過ぎ、代々木八幡宮。
境内の木々が騒音をかき消しているのか、山手通りがすぐそばにあるとは思えない静けさ。神社は地域の歴史を語り継ぐ場所だが、代々木八幡宮には、縄文時代の竪穴式住居の遺跡もある。
菅原道真公は、社殿に向かって右側の合祀社に祀られている。

由緒

代々木八幡宮

鎌倉時代、二代将軍・源頼家の側近であった近藤三郎是茂(これもち)の家来で荒井外記(げき)智明(ともあきら)という方が、頼家公暗殺の後、名も宗祐(そうゆう)と改めてこの代々木野に隠遁し、主君の菩提を弔って暮らしていましたが、時に建暦2年(1212年)8月15日夜、霊夢の中で八幡大神の託宣と宝珠の鏡を感得しました。そこで同年9月23日、元八幡の地に小さな祠を建て、鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とされています。
(代々木八幡宮ホームページより)

天神社

境内掲示から、天神社には二柱、つまり、大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、紀州家側室延寿院殿が守護神として祀っていた一柱と、新町三番地(現在の文化学園の西)にあった銀杏天神社のもう一柱が祀られていると推測される。

稲荷社と天神社については、江戸時代、大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、紀州家側室延寿院殿が守護神として祀っていたものが奉祀されたと伝えられている。その後、明治三十三年、神社合併政策により、山谷三〇一番地(現在の参宮橋駅の西)にあった掘出し稲荷と、新町三番地(現在の文化学園の西)にあった銀杏天神社がそれぞれ合祀された。
榛名社については、この地域で雨乞い豊作の祈願のために上州の榛名山まで参詣するという習慣があったことから、おそらく各村や家に祀られていた榛名社が、やがて氏神様である八幡宮の境内に移されたものと思われる。
また、本殿の八幡宮の相殿として、やはり明治三十三年、山谷三六五番地(現在の代々木公園駐車場あたり)にあった天祖社と、同じく山谷一三九番地(現在の南新宿駅の北)にあった白山社が合祀された。このため稲荷・天神・榛名社と両社合わせて祭礼を五社宮祭と称することになった。
(境内掲示より)

所在地:東京都渋谷区代々木5丁目1-1

外部リソース

Additions

『江戸名所図会』  代々木八幡宮

代々木野八幡宮 同西の方、代々木野にあり。此野も武蔵野の中なり。祭禮は九月二十三日に修行す。別當は天台宗にして、寶珠山福泉寺知妙院と號す。古は知明に作る。
相傳ふ。當社は往古源頼家公の旗下なりける近藤三郎是茂の家人、荒井外記智明といえる者、故ありて相州に退き、此代々木野に蟄居し、宗友と名を改め、年月を送れり。八幡宮は本國の産土神たるによりて、常に尊信怠る事なし。然るに建暦二年八月十五日の夜、夢中に鶴ヶ岡八幡宮の霊示ありて、寶珠の如き鏡を感得す。依て同九月二十三日、此地を求めて荊棘を拂ひ、少祠を営んで、初て鶴ヶ岡八幡宮を勧請し奉るとなり。

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