思い立って天満宮・天神巡りの1社目。亀戸天神社は3度目、17年ぶりぐらいの奉拝。自宅から自転車で向かう。奉拝後は、船橋屋のくず餅には目もくれず2社目に。
別称
「亀戸天神」
祭神
主祭神は菅原道真。アメノホヒノミコト(天之菩卑能命/天穂日命/天菩比神)を配祀。
由緒
明治初年の神社明細帳(東京都公文書館蔵)によれば、開基別当大僧都法印菅原信祐は正保三年(一六四六)二月、夢中に神詠の句に感ずる事有り、太宰府天満宮前の飛び梅をもって神像を刻み笈に納めて、諸国を巡歴し、心にかなう地がなく、ついに武蔵国に至る。明暦の大火のために江戸の地の大半が焼土となり、下総国葛飾郡を割いて武蔵国に加え、本所の地を開発しようとした時だった。そのとき、庄屋に願い亀戸村に古来存する天神の石詞に仮の社殿を設け、初めて祭祀奉仕した。その後、新たに徳川家綱より荒蕪地を賜り、太宰府に模して社殿を造営した。これが現在地の社になるという。
文政一一年(一八二八)に成立した『新編武蔵風土記稿』巻之二四によれば、信祐が亀戸村に天満宮の小雨を祀ったのは寛文元年(一六六一)八月二三日であり、当時の本所築地奉行は徳山五兵衛・山崎四郎左衛門だった。信祐が一里四方の土地を賜ったのは、寛文二年二月一九日で、神殿以下反橋心字の池など悉く太宰府の社に擬して作ったのは寛文三年であり、その年の八月に初めて行われた祭礼の儀式も太宰府の例にならい神輿渡御がなされ、寛文九年に信祐は京都に上り、亀戸天神の図を後水尾法皇に奉り、法皇より菅神尊号の宸筆を賜った。また、江戸期の別当は東安楽寺であり、天原山聖廟院と号し、開祖は大鳥居信祐であったという。『太宰府天満宮』によれば、寛文元年八月二三日に、太宰府天満宮社人大鳥居信祐が太宰府の神霊を武蔵国本所亀戸村に勧請し、元禄二年(一六八九)、宰府留主大鳥居信兼は江戸亀戸の大鳥居信祐と兄弟の契りをかわしている。
明治維新の際に、東安楽寺や仏堂を廃し、明治五年に府社となる。『東京都神社名鑑』によれば、昭和二〇年三月の大空襲により、神庫を除き一切を烏有と帰し、戦後、前田家江戸屋敷邸内社を譲り受け本殿とし、昭和三六年に鎮座三百年を記念として拝幣殿などを再建し、昭和五四年に御神忌千七十五年大祭記念事業として本殿を再興し、昭和五六年に社務所を建設した。
(『江東区の民俗 城東編』より)
所在地:東京都江東区亀戸3-6-1
外部リソース
- 亀戸天神社(ウィキペディア)
- 亀戸天神社|公式ホームページ
Additions
『江戸名所図会』亀戸天満宮(国立国会図書館デジタルコレクション)
宰府天満宮 亀戸村にあり。故に亀戸天満宮とも唱ふ。別当を天原山東安楽寺聖廟院と号す。司務兼宮司大鳥居氏奉祀せり。当社別当は柳営連歌の列に加へられ、毎歳正月十一日営中に至り、御連歌百韻興行す。御旅所は当社の南、北松代町四丁目にあり。筑前国榎寺の模なり。薬師堂あり。八月二十四日祭礼の時神輿を此所に遷しまゐらす。
本社 祭神天満大自在天神。相殿 天穂日命・土師宿禰 三座。
参拝記録
2016年5月21日:晴れ・自転車