#118. 谷保天満宮

調布駅から高幡不動方面の電車で分倍河原駅。JR南武線で立川方面の電車に乗り換え、谷保駅。谷保駅東口から民家の道を抜け、甲州街道に出ると、目の前に谷保天満宮。甲州街道沿いの一の鳥居をくぐると、降りの参道。社殿に向かって参道が降っている構造は、福岡市の立帰天満宮と同じ。手水舎からさらに階段を降りると、左側に神楽殿、右側に拝殿と本殿。東日本最古の天満宮、関東三大天神に数えられるだけあり規模は大きく、境内には滝が流れ、ニワトリやチャボが放し飼いにされている。
菅原道真の三男・道武による創建と伝えられるが、記録に残る菅原道真の子に「道武」という名の男子はいない。記録から消されたのか、記録に残る誰かが流されてこの地でその呼び名を変えたのか、それとも… 。謎の残る由緒である。

祭神

菅原道真公と菅原道武公を本殿に祀る。

由緒

昌泰四年菅公太宰府に遷らせ給う所、第三子道武朝臣この地に配流され給う、父君薨去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず父君の尊容を刻み、天神島(現府中市本宿)に鎮座す。
養和元年十一月三日裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り現在の地に遷座す。天暦元年京都北野天満宮造営の折、勅使の下向ありて官社に列せられ、関左第一の天満宮と称せられ、明治十八年府社に列せられる。
(北多摩神社青年会による境内掲示より)

谷保天満宮は「醍醐天皇延喜三(九〇三)年二月、菅公筑紫に薨去された折、道武朝臣は思慕の情に堪えず、手づから父君の尊容を刻んで廟殿に鎮祀し、旦暮如在の礼を盡された。
延喜二十一(九二一)年十一月、道武朝臣が此地で逝去されるに及んで、神霊を相殿に配祀して三郎殿と称した」と伝えられている。(天満宮略縁起・谷保天満宮所蔵)
江戸時代には、朱印領十三石を寄せられ、明治十八(一八八五)年には「府社」となった。
谷保天満宮の主な社宝には、国指定重要文化財工芸品の木造扁額、建治元(一二七五)年藤原経朝筆の額文「天満宮」があり、同じく国指定重要文化財彫刻、鎌倉時代後期の作と見られる木造狛犬一対がある。社叢は、都指定文化財天然記念物の指定を受けている。
(国立市教育委員会による境内掲示より)

所在地:東京都東京都国立市谷保5209

外部リソース

Additions

『江戸名所図会』 谷保天神社

谷保天神社 同じ街道西の方、谷保村道より左側にあり。此所は分倍庄栗原郷と云ふ。別當は安樂寺と號す。祭禮は毎歳二月と八月の廿五日、又三月十五日には開扉あり。十一月三日は、當社往古天神島と稱る地より、今の地に遷座なし奉りし縁により、此日に小菜供を献備するといへり。本社祭神天满大自在天神一座、神體は菅家第三嗣菅原道武朝臣の手刻なり。
額『天満宮』後宇多天皇勅、世尊寺經朝卿筆。額の裏に左の如き二十四字を刻せり。又外に、同じ額の寫一枚あり。水戸黄門光圀卿これを奉納なし給ひしとて、裏書に元禄三年庚午眉毛軒河野門入敬彫とあり。經朝卿の筆せられし額の背面に曰く、
建治元年己亥六月二十六日乙丑書之
正三位 藤原頼臣經朝

edomeishozue012.png

道真の子

記録に残る菅原道真の子は、

  • 正室・島田宣来子(島田忠臣の娘)との子、高視(長男)、衍子(宇多天皇女御)
  • 側室・宮原頴人の娘との子、旧風
  • 生母不明の子、寧茂、景行、景鑑、淳茂、弘茂、兼茂、宣茂、淑茂、滋殖、尚子、寧子、俊子

このうち、昌泰の変で、道真同様に京を追われたのは、高視(土佐)、景行(駿河)、兼茂(飛騨)、淳茂(播磨)。