#13. 平河天満宮

東京に来たら参拝しようと思っていた天満宮で、結局20年以上も訪れることのなかった平河天満宮に初参拝。周囲をマンションで囲まれた都心の土地に、拝殿、平河稲荷神社、三殿宮(大鷲神社、塩神社、浅間神社)の境内社2社、神楽殿、さらに人々の思い、あるいは感謝が込められた奉納品が所狭しと並ぶ。撫で牛、石牛、常夜灯、百度石、狛犬、筆塚、そして銅鳥居。撫で牛は、文政8年(1825年)の牛嶋神社、嘉永2年(1849年)の湯島天満宮の撫で牛についで古い、嘉永5年(1852年)菅原道真公の950年遠忌に奉納されたもの。約170年でここまで摩耗するのは、それだけ多くの人がこの牛を学芸上達のために撫でたということか。あるいは170年という時の長さか。
御朱印とともに「平河天満宮」と印刷された袋に入った梅紋の形をしたせんべいをいただく。

由緒

江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明10年(1478)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)。
慶長12年(1607)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰篤く合格の祈願客も多い。(平河天満宮境内掲示より)

その昔、江戸平河城主太田道灌が菅公に親しく面接の夢を見た翌朝、突然に菅公自筆の画像を贈られ、霊夢と深く感激、城内北畔に文明十年(一四七八)六月二十五日創祀された神社(萬里居士の『梅花無尽蔵』に詳記されている)。太田道灌没後天正十八年(一五九〇)徳川家康が江戸城に入城、本丸修築のため平河門外に奉遷。さらに慶長十二年(一六〇七)将軍秀忠は江戸城増築にさいし本社を現在の地に奉遷、地名を神社にちなみ平河町と名付けた。宮城に一番近い神社と多く信仰を集めたが、火災による十数度の類焼の難をこうむった。大正十二年の大震災には一宇残さず烏有に帰した。(東京都神社名鑑より)

所在地:東京都千代田区平河町1-7-5

外部リソース

Additions

『江戸名所図会』平川天満宮(国立国会図書館デジタルコレクション
edomeishozue002.png

高校生の時から平河天満宮を知っていたのは、このスナップ写真から。