蛍雪天神の参拝を終え、神楽坂から山吹町方面に。牛込天神前交差点から山吹町交差点の間の、山吹町に向かって左手が、新宿区天神町で、「天神」や「テンジン」を使ったビル名も目立つ。北野神社へは牛込天神前交差点と山吹町交差点の中間ぐらいにある細い参道から。
「自転車でポタリングするならテーマがあったほうがいいな」と考えていたところ、今年のゴールデンウィーク最終日にこの神社の前を通りかかり、菅公巡拝を思い立った。それがこの北野神社。
手水舎はセンサー感知で水が流れる。いたずらや盗難が多いのか、無人運営前提なのか、境内にはカメラで監視中の警告書き。なお、この社は、赤城神社の管轄にあるとのこと。
別称
「大橋天神」
由緒
創建年代は詳らかでないが、往古より天神町の天神と崇敬せられ、天神町の名称もこの神社の鎮座あるため名付けられたという。しかるに境内には稲荷の社もあるため、嘉永年間(一八四八-五四)のころは住民の信仰は稲荷の神に帰して、たんに稲荷社と呼称するに至り、その時代の古絵図にもたんに「イナリ」と掲記されているのは、この伝説を裏付けるものと思われる。現在は天神さまと称している。昭和二十年五月戦災により、社殿その他いっさい焼失した。(引用:『東京都神社名鑑』)
『江戸名所図会』によると、大友宗麟の孫、大友義延(義乗)は、徳川家二代将軍秀忠の近侍を勤め、牛込(新宿区榎町から天神町)に屋敷を与えられていた。義延は屋敷内に太宰府天満宮を勧請し、祀っていたが、後この天満宮は高田に移る。大友の屋敷跡地は、秀忠、家光の祐筆、大橋隆慶に拝領され、将軍家より賜った天神像を祀ったとのこと。
これが大橋天神と呼ばれ、現在の北野神社とも考えられる。しかし、隆慶の天満宮が高田に移ったとする史料もあり(『江戸近郊道しるべ 』村尾嘉陵)、由来は定まらない。
大友宗麟は戦国の代表的なキリシタン大名、孫の義延もフルゼンシオの洗礼名を持つ。大橋隆慶もキリシタンとする説もある。キリスト教が禁教とされてのちも、信仰を捨てず、慈母観音を聖母マリアと見立てたり、聖像聖画や十字架などの聖具を秘蔵して「納戸神」として奉ったりした。天神もまた、唯一神を表し、語源的には「天空・輝き」を表す「デウス」と関連付けキリシタンの崇拝対象となるケースがあった(らしい。Memo:一次史料や論文を見つける)。大友義延も大橋隆慶も天満天神をキリスト信仰のカモフラージュとしていたのかもしれない。














所在地:東京都新宿区 天神町 75-13