西早稲田から勾配のきつい戸山を抜け、総務省統計局の脇の道から大久保通りへ。東新宿の手前、抜弁天厳嶋神社の角を左に曲がり、再び坂道を上ると左手に西向天神社。参道横の空き地で20歳代の男女がずっと立ち話。ナンパか? 告白か? 別れ話か?
参道の階段を登り境内に入ると、木が茂った涼しい空間が広がる。新宿区新宿、5分も歩けば、歓楽街・歌舞伎町という位置に、こんな静かな場所があるということに驚く。
祭神
菅原道真公を主祭神に稲荷大神、厳島大神、秋葉大神を配祀。
別称
「西向天神」
由緒
本社は、古来より東大久保村の鎮守社であった。現在でも境内は広く、椎の木などが森をなしている。
正式には大久保の天満宮と称し、菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請したものである。社伝によると、安貞2年(1282)に京都栂尾の明恵上人(1173-1232)が東国に五大尊寺を開こうとして、菅原道真自作の尊像を持って下向し、翌年当地の村人と計って祠堂を建てて鎮守としたことにはじまるという。
これは伝承に近いものであるが、天正年間(1570年代)に兵火で全焼していたのを聖護院宮道晃法親王が東国下向の折に、大僧都玄信に命じて再興させたというから、同社の起源が、少なくとも中世までさかのぼることは考えられる。西向天神と通称しているのは、社伝が地形上西向きになっていることによる。さらに棗天神との俗称もあり、これは寛永年間(1630年代)に、将軍家の鷹狩りの祭に、当社が荒廃していたのを、金の棗の茶入れを下賜して、それをもって再興を促したという伝承によるものである。
文化10年(1813)に、諸国を遊歴した僧の著した「遊歴雑記」という本には、この神社が、慶安から天和頃までは、境内に桜が多く、花見の名所であったこと、ご神体の木像の天神像は長さ7、8寸の荒木の座像であったといっている。
明治5年11月に村社となり、社地は1516坪であった。境内には現在でも石造物などの文化財が多く、境内の西隅には富士塚もある。同社の別当寺は隣接する大聖院である。(『新宿区の文化財』より)



















所在地:東京都新宿区新宿6-21-1