今日の天神巡りの最後は、北大塚の子安天満宮。鎧神社から小滝橋、高田馬場、千登世橋、雑司が谷、東池袋、大塚を自転車で一気に走る。目的の子安天満宮は大塚駅の北側、巣鴨警察署入口交差点を線路沿いに登っていく道。この道は、山手ゴルフ練習場、つまり打ちっぱなしで何度か通っていたが、ナビに従って自転車をこいで登り続けると、ほぼこのゴルフ練習場と同じ場所。当時はこの神社があることに気づいていなかった。境内は広く、社務所兼住宅と思しき建物がある。木々はきれいに整えられ、枇杷の実も生っている。参拝を終え、境内を後にして登って来た道を下る。この一帯は「天神山」と呼ばれていたとのこと。下り坂になる帰りは注意しないと自転車のスピードが出すぎてちょっと危ない。
別称
「子安天満宮」
由緒
天文年間(一五三三〜一五五五)の鎮守。室町時代天文年間に巣鴨保坂氏の祖先、仁平(にだいら)三河守盛義(新編武蔵風土記巣鴨村の項参照)が三河の国から(一説には京都から)この巣鴨の地に来て、当神社の西方低地谷端川のほとりに陣屋と称する家屋敷を構え、巣鴨村立始の住人となって(駒込圓勝寺の墓石参照)土地の開墾に勤め、同時に屋敷の東西南北の小高い場所に神々を祭って屋敷神とした。北は氷川神社(北大塚一丁目三八番八号の辺り)、南は熊野神社(南大塚三丁目三九番五号の辺り、現在は天祖神社社内に移る)、西は稲荷神社(北大塚一丁目一五番地五号の辺り、又は同二丁目三三番の辺り)、そして東に勧請したものが菅原道真公を祭るこの神社であり、最も広く、明治時代は坂の下の道迄一、一二〇坪の境内地を擁した。盛義は元亀二年(一五七一)に没し、その子は武士をやめて姓を保坂と改め、代々徳右衛門と名乗るようになり、やがて江戸に徳川幕府がおかれ、中仙道の往来がしげくなるにつれ、陣屋をすてて中仙道筋に移り、永く増上寺領巣鴨村の名主を勤めた。保坂氏の子孫は絶えることなく、当神社の奉仕を続けて今日に至っている。尚この辺一帯の土地を天神山と唱えるのは、この御宮に来するものであり、社号に子安の二文字を冠するのは子育ての意味である。当神社は江戸時代の江戸惣鹿子名所大全、須原屋版分間大絵図等にも登場され、江戸名所図会の巣鴨真性寺の遠景にも描かれている。(境内掲示より)











所在地:東京都豊島区北大塚1-7-3
Additions
『江戸名所図会』で子安天満宮が巣鴨真性寺の遠景描かれた図絵。図版右上に「天神山」の文字とともに描かれている。(『江戸名所図会』一三 国立国会図書館デジタルコレクション)