#93. 清水天神

容見天神跡を後にして、薬師駅に戻るが、アスファルトの照り返しに途中でギブアップ。タクシーを拾って堅粕。タクシーの運転手に話しかけられる。天満宮巡りをしてると伝えると、清水天神近辺にある神社や寺を、カーナビ見ながら次々と紹介してくれる。「寺社巡り」ではなくて「天満宮巡り」なのだが、こういう時に気の利いた返しができない。程なくして、清水天神到着。団地の敷地の中に鎮座。由緒書きは当社の由来とともに、堅粕地域の開発の歴史。拝殿内は、集会所としても使われているようである。地域の記憶を止める場所、地域のセンター。神社の果たす役割が信仰だけではないことをしみじみと感じる。

由緒

そのかみ祭神菅原道真公は平安時代京都御所に於て並ぶ者なき学者であられたが時の政権を握る藤原一族の讒言により延喜元年(約壱千年前)京都を追れて遠い九州太宰府に流された海路瀬戸内海から関門を通り玄界灘を渡って博多港に上陸され博多の住民より道真公の徳を慕れて水鏡天満宮や綱場の天神として祀られその足跡を残されています 道真公は太宰府への道中も白砂青松の続く千代の松原の緑の美しさを愛でさせられ車駕をとめて暫く御休息され松の園生の中に清水の湧き泉ずる所として里人がその徳を敬ひ祀るため祠を建てたので清水天神の名が残ったと伝えられ又その御神田として附近に小鳥居と云ふ字名が残され大正年代迄地元松園農家の人によって耕作されていた現在地は御笠町国鉄線路附近になると言われる 又一節には旧松園村高田善九郎家に伝わる古文書によれば慶長六年(約四百年前)願主原田九郎種道書として当時黒田長政が関ヶ原の戦功に依り筑前五十二万石の領主として名島城に入りその居城として当時の筑紫郡警固村福崎附近に現在の福岡城を構築の際警固村福崎附近に在りて四辻の天神と云われ祠を水鏡天満宮の勧請に依って那珂郡堅粕村辻に移転奉遷する時社号を清水天神社と改む可き上日差支無くお聴済し相成り候との国主長政公への御上書が原田高田家伝来の秘書として残り又清水天神社巻物添書として文政五年(約一五五年前)浄福寺再建の節社殿を境内表門境東側に遷し社殿の再建は安政三年浄福寺小寺の西隣に移転しその後文久二年九月小寺の東側に移転し御遷宮式が盛大に取行れたと記されその後明治十九年に御神殿を明治二十一年五月に拝殿を新築するとあり寸法は弐間四方なり明治二十二年十一月高田善九郎種吉謹書として残されている
その後清水天神社は松園区の民神として敬れ七月の夏祭りや十月二十五日の秋の神事には毎年氏子町民相計り奉納相撲が盛大に取行れて来た 日清日露の戦争や昭和前期の大戦争には松園九ヶ町(戦時中統合され三ヶ町となる)の若者達が召集令状を受けて当時の粗末な社前に於て肉親や友人達と悲壮な別れを惜んで萬歳の声で送られたがその中から幾多の戦死者が出ている
昭和二十年八月十五日国民多数の犠牲者を出して敗戦を迎え荒廃した中から町民は立ち上り混乱の数年が過ぎて昭和二十四年堅粕三ヶ町連絡協議会発足した その後町民意識の高揚と有志の連帯感に依って荒廃した清水天神の再建の相談がなされ昭和二十八年から二ヶ年の歳月をかけて三ヶ町民の寄附金を募集して昭和三十年十月神社の秋の祭典迄に神殿と拝殿が新築で完成した 以来二十有余年三ヶ町協議会と宮世話人会が一対となり清水天神が受けつがれて来た 然るに昭和三十八年博多駅後退に依り鉄道は高架線となり昭和四十九年には新幹線の博多駅乗入が実現し又国道三号線を拡幅してその上に高速自動車道が計画されて地域町民は騒音と附近住宅の環境の変化に依り堅粕三ヶ町の総合発展と住宅過密問題解決のため改良住宅施行により建物を高層建築にして広場や公園道路を整理する必要となり地域住民と相談して昭和四十八年度第一期工事を御笠町浄福寺の移転改築を中心とした場所に決定され引続いて第二工事も着工され毎年順次実施されて堅粕三ヶ町の住宅大改革が行れる事となり由緒ある清水天神社も住宅環境の変化に応じて今の中央広場附近に新築移転奉遷する事になった 以前神社のあった跡地には大銀杏の木を残している
(境内掲示より)

所在地: 福岡県福岡市博多区堅粕2−13−3−2