北条天満宮を後に山陽電鉄の手柄駅まで歩く。地方路線ということで運行の頻度が少し心配だったが、昼は1時間に4、5本の運行でひと安心。ホームのベンチで5分ほど待ち、飾磨方面の電車に乗る。飾磨駅で電車を降り、改札出るとノスタルジックな喫茶店、理容院、時計屋が並ぶ。喫茶店でひと息つきたい誘惑に駆られるが、駅ビルを出てタクシーで浜之宮天満宮へ。タクシー乗り場も、運転手が世間話をしながら客待ちをしていて、なんともゆったりした時間が流れている。
参拝を終えてゆったりとした境内でしばし時間を過ごす。木々の茂った境内は、夏場もきっと浜からの風で涼しい場所だろうなと想像しながら、今にも雨が降りそうな曇り空を恨めしく思う。
由緒
当社は、正暦年間(九九〇〜九九四)の初め宮町に御鎮座されたが、江戸万治年間(一六五八年から一六六〇年)に、松の緑の色栄える今の須加町の大浜の美しい所を選び、移設し祀られたという。当神社の南は松林になっており、近くまで海が迫っていたようで、榊原政邦の飾磨江亭八景詩の中にも「菅詞青松」と題して詠まれている。また、文化元年(一八四〇)播州名所巡覧図会には「天満宮 浜の天神といふ。飾磨津にあり。」とある。社殿は戦災に遭い、創立年代は不詳。菅公の御由緒地であることから鎮祭、明治七年(一八七四)二月に郷社に列せられた。
境内には元禄一二年(一六九九)の石燈篭、宝暦一〇年(一七六〇)の鳥居、寛政一〇年(一七九八)の手水舎、天保一三年(一六四二)大浜岩吉奉納の力石、慶応二年(一八六六)生魚中買中・魚売子中の常夜燈等、江戸期の石造品がある。また社前の霊牛は、明治一一年(一八七八)に、越前加賀の北前船の船主たちが奉納したもので、飾磨津が北前船の寄港地であったことを物語る貴重な遺品である。
(姫路市教育委員会・姫路市文化財保護協会による境内掲示より)



















所在地:兵庫県姫路市飾磨区須加40