北野神社御旅社から妙心寺通を東、6月の天満宮巡拝で、一枚しか写真を撮ってなかった文子天満宮元宮を目指す途中で、北野七保のひとつ、四之保の旧跡に出くわす。『京都坊目誌』によれば、四之保の神宮寺・新長谷寺のあったところで、菅原道真作の枕箱観世音を安置し、その堂は捨衣堂と呼ばれていた。さっき奉拝した、北野神社御旅社はこの四之保にあったとされ、のちに、神輿岡に御旅社が遷され、現在に至っている。
由緒
この地は、北野天満宮七保社のうち四番目に当る四之保社があったところである。七保社とは、菅原道真が、大宰府で薨じた後、随徒の人々が帰京して、右京の地に建てたと言われている七ヶ所の御供所である。保とは、元来、律令京師制の行政単位で、神社の神人居住区域を意味し、この地も、北野神人たちが居住し、商業などに従事する傍ら、神供調進にあたったといわれている。当初、神宮寺新長谷寺が管掌し、藤原道長自作と伝える観音像を祀り、多くの帰依者を集めたが、元文五年(一七四〇)に廃社した。現在は、当時、威徳水と呼ばれ、病気平癒の御利益がある水として人々よりの信仰を集めた井戸跡のみが残されている。「威徳」とは三面(顔)六臂(腕)六足で憤怒相、水牛の上に乗っている大威徳明王のことであり、不動明王の一員でもある。その明王のすさまじいばかりの力を借りようと修法するおり、閼伽水(仏に供える水)をこの井戸から組んだことに由来する名前とされている。なお、この付近の町名である中保町は、七保社のうち真中の四番目の保であったことからこのように呼ばれるようになったものである。(京都市による駒札より)


所在地:京都府京都市中京区西ノ京中保町50