五条通りを西に進みJR丹波口駅近く、元禄時代に栄えた京都の花街・島原(嶋原)の西北に鎮座する島原住吉神社にある幸天満宮を目指す。五條天神社からは1.5kmぐらいだが自転車を走らせていて時間がかかるように感じるのは、そろそろ疲れが出てきたからだろうか。
島原住吉神社は狭い境内ながら、しっかりと整備され、境内の石碑が当時の歴史を語っている。島原伝統保存会の尽力だろうか。日当たりのよい時間帯、境内のそばでおばあちゃんが世間話をしている。
幸天満宮では鷽替えの神事が行われていたとのこと。鷽替えはもともと太宰府天満宮が発祥。北野天満宮の権威が強い京都で、元は会所の祠だった天満宮で、太宰府天満宮発祥の神事を営まれたのは、花街の集客イベントの一つとしてということも妄想できそう。
由緒
島原住吉神社
島原住吉神社は、もと島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が、霊験あらたかにして良縁の御利益があり、参詣者夥しきため、享保十七年(一七三二)祭神を島原の西北に遷座し建立されたものである。その規模は、南は道筋(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで及び、 広大な境内地を有した。爾来島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていた。
ところが、明治維新後の廃仏毀釈により、神社株を持たない当社は廃社となり、祭神を歌舞練場内に祀ることとなった。
しかしながら、地元の崇敬心は篤く、明治三十六年(一九〇三)には、船井郡本梅村から無格稲荷社の社株を譲り受け再興した。ただし、現在の狭い境内地となり、正式社名も住吉神社は認められず、稲荷神社とされた。
平成十一年(一九九九)には、社殿、拝殿を改修のうえ、社務所も新築し、境内の整備がなされた。同十三年には、懸案の社名を島原住吉神社と改称し、旧に復することとなった。
(島原伝統保存会による石碑より)
幸天満宮
住吉神社の境内社である幸天満宮は、当初揚屋町の会所に天神の祠があり、それが、享保十九年(一七三四)当所に遷座したものである。延享五年(一七四八)より、筑紫太宰府天満宮にならい、鷽替(うそかえ)の神事が営まれるようになった。それは、色紙、短冊などを持ち集まり、「鷽を替えん」と言いつつ取り交わす甚だ興あるもので、諸客の見物で賑わったが、明治以降は完全に廃れてしまった。
(島原伝統保存会による石碑より)














所在地:京都府京都市下京区西新屋敷下之町1-6
外部リンク
- 鷽替え(ウィキペディア)
- 島原 (京都)(ウィキペディア)
- 神社ごとに違う!毎年1月25日に各地で行われる「鷽(うそ)替え神事」のお守りが可愛い|「colocal コロカル」ローカルを学ぶ・暮らす・旅する