このところ、毎週土曜日の朝は晴れ。先週は板橋方面に足を伸ばしたが、今週は中野方面に。新目白通りを学生時代に住んでいた東長崎方面に向かい、新青梅街道に入って哲学堂公園から、中野区松が丘の北野神社に。すぐそばを妙正寺川が流れ、緑が鬱蒼と茂る境内、神社の設備はこぎれいに整備されている。天候とあいまって気持ちがよい。
由緒
当社は往昔天神社と称し、古来北野神社の鎮守社であった。文明九年(一四七七)太田道灌が石神井、練馬両城攻略のさい、この社に詣で戦勝を祈願したとも伝えられる。社の付近に葛ケ谷古戦場も存している、明治五年北野神社と改称した。また口碑によれば慶長十二年(一六〇七)京都北野神社造営のさい、里人菅公を崇拝のあまり、ここに奉祀したともいう。明治十七年一時江古田村に合し、江古田村の一衆落になり、江古田氷川神社に所属したが、昭和八年九月社殿改築とともに片山村の氏神とし、神苑も整備した。(引用:『東京都神社名鑑』)
この北野神社は、長い間、北野天満宮とも呼ばれ、新編武蔵風土記稿にもみえています。
この神社では、昔から「おびしゃ(御歩射・備射)」の神事が行われてきましたが、いまではそれもおこなわれなくなって、伝統を語る古老も少なくなってしまいました。
「おびしゃ」の神事は、関東地方東部で行われる春の農村行事で、弓で的を射て、その年の豊作を占うものですが、いつの頃からか、神と人との直会の宴の色合いが濃くなり、大正期には、日光の強飯式に似た行事に変わってしまったそうです。
この神事は、二月の初午の日と秋の例祭の二回行われ、当初は、当番と両隣りの家が本膳を用意し、おとなたちは、祝いのうたを歌い、こどもたちは、豊作祈願の文章を読むのが恒例となっていました。(境内の中野区教育委員会掲示より)















所在地:東京都中野区松ヶ丘2-27-1