綱敷天神社本社をあとに、露天神社に。露天神社に至る界隈は、大阪に来た時に使うビジネスホテルや、飲み会で訪れる場所で少し見慣れた風景。露天神社では、大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神とともに菅原道真公が祀られている。菅公聖蹟二十五拝の一社で、「天神」の名前を持つが、創建が700年ごろという由緒から、もともと主祭神は菅原道真公ではない模様。御朱印を待っている間に、社務所の授与品を見ていると天満宮の授与品よりも、『曽根崎心中』と己貴大神(おおなむちのおおかみ)に由来する縁結び関連の授与品、とくにお守りが多いようである。撫で牛の前に座って話をしている女子高生風情の二人は恋バナの最中かも。
参拝を終え、曽根崎お初天神通り商店街を北に向かって商店街を抜けると、目の前には午後から再び仕事をするオフィルがあるビル。席に戻り、途中のコンビニでかったカロリーメイトを食しながら仕事を始める。
祭神
大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真公を祀る。
由緒
社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥三年(850年)に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽弥神」を祀ると伝えられる。往地此の地は曽根洲称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこのご神名より起こる。平安期、渡辺十郎源契来りて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、曽根崎村へと発展し、当社も産土神「曽根崎天神」として尊崇された。現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。昌奏四年(901年)菅原道真公筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う折、境内の草木露深ければ
露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを 想い出づれば
と詠ぜられ、菅公大宰府にてご他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、右の御歌より「露ノ天神社」と称する。(社名の由来その他諸説有り)元禄十六年四月七日堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内木町醤油問屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。以後上演の度、男女身分の差無く多数の民衆観劇し、挙って当社に参詣慰霊に訪れたと云う。「お初天神」と通称される所以である。(境内掲示より)




















別称
「お初天神」
所在地:大阪府大阪市北区曽根崎2-5-4
外部リソース
- 露天神社(ウィキペディア)
- 露天神社(通称 お初天神)
- 『摂津名所図会』曽禰嵜露天神(国立国会図書館デジタルコレクション)
Additions
『摂津名所図会』曽禰嵜露天神
露天神(つゆのてんじん) 曾根崎にあり。世人曾禰崎天神と称す。祭神菅公。例祭九月二十日。伝へ云ふ、むかし菅公筑紫へ謫遷の御時、福島に船泊したまひ、太融寺仏詣あらんとて、船頭茂太夫案内者となる。この道のほとり露いと深くありければ、 菅公御神詠に、
露と散る涙に袖は朽ちにけり都のことを思ひいづれば
これより露天神の号あり。また老松町には老松祠あり。総じてこの辺を、俗に北の新地・堂島新地といふて、宝永五年の開地なり。常に賑しく、タ暮より両側には軒の懸行灯かがやかしく、紅顔雪肌の輩ゆききして、楼上には琴曲・糸弦の音麗しく、芝居あり、射場あり。西の町端を編笠(あみがさ)茶屋といふて、江鮒(えふな)を製して雀酢(すずめすし)と名づけ名産とす。みなこれ天満(あめみつ)る神の余光なるべし