#67. 安楽寺天満宮

大将軍八神社から天神通に出る。自転車を数分走らせると安楽寺天満宮。参拝を済まして、社殿の隣に目をやると「天満宮舊蹟」の大きな石碑と「一之保天満宮」の神額を掲げた鳥居。
もともとここには一之保天満宮があり、明治に北野天満宮に末社として遷座、その後この地に再建された天満宮が安楽寺天満宮ということ。西ノ京一条から二条の間の北野天満宮神域に、七つの「保」と呼ばれる地域があり、それぞれの保には、北野神人と呼ばれる住人が天満宮を祀り、北野天満宮への御供のための神饌を調理していたこと。七つの保は神宮寺を有しており、それぞれ一保安楽寺、二保東光寺、三保長宝寺、中保(四保)新長谷寺、五保満願寺、六保阿弥陀寺、七保成願寺があったこと。こういった背景は、西京神人末裔七保会による境内の駒札をきっかけに知る。境内にある石碑、再建された社殿、そしてこの駒札。歴史を語り継いでいく意思を感じる。

由緒

菅公太宰府におはしける時、自ら木像を作らせ給ひしを、薨去の後、同氏の祖先某之を奉じて、京都に歸り、西の京の北町に小祠を立てゝ鎮座せしめ、宰府の御墓所に准じて、安楽寺と称せ奉れり(中略)按するにこの小祠は、安楽寺天満宮と称して、境内九反七歩あり、その裏門通をば、筑紫町と名つけたり、(今は川瀬川と云う)これ寶に公の霊を京都にて祭れる始なり、明治元年寺號を廃して、一之保神社と称せり(『北野誌』天「瑞饋祭」より)
明治の神仏分離政策で安楽寺は廃絶。明治6年(1873年)7月、御供所が廃止となり、北野天満宮境内に遷座し、同宮の末社一之保神社となる。戦後、御供所跡地に再建(戦後の再建に至る史料?)。

別称

「時鳥天満宮」・「時鳥天神」「郭公天満宮」

所在地:京都府京都市上京区北町(天神道)

外部リソース