安楽寺天満宮境内にある旧跡で、現在は北野天満宮境内に鎮座する一之保天満宮の旧跡。
由緒
北野天満宮御供所七保の一つ、安楽寺天満宮(一之保の社)の旧蹟。安楽寺に鎮座していたこの天満宮は、明治元年に一之保神社に改称。その後、神仏分離政策で安楽寺は廃寺、明治6年の御供所廃止で、一之保神社は、北野天満宮の境内末社として遷座。
この旧蹟は、安楽寺天満宮境内(安楽寺旧蹟)にあるが、安楽寺天満宮は、西京神人末裔七保会によって再建されたものか?






北野天満宮御供所七保
祠官宮仕の外に、西京に住める社人と稱するものありき、これは初め、北野社創立の時、右京一條より二條までの地に於て七ヶ所の御供所を建てたり、これを七保といひき、(中略) 保とは平安城大内裏を起されし時、京城を區劃せられし名稱にして、壹町即ち四十丈四方を四目結の如く四つ合せて、貳町四方を一保といひ、保を又四目結の如く四つ合せて四町、四方十六町を一坊といひ、坊をまたかくのことくして、四つ合せたるを一條といひたり、その保を七つの御供所に充てられし故に七保の稱は起これり)その保名は一保安楽寺、二保東光寺、三保長寳寺、四保新長谷寺、五保満願寺、六保阿彌陀寺、七保成願寺と稱せり、その一保安楽寺は即ち延喜五年二月に社人の祖先等神像を宰府より奉祀し来れる處にて、京都にて公を祭りし最初の地なりといふ、かく定まりては、従来安楽寺に奉仕せしものどもを、北野神人と稱せしめ、七組に分ち神事に奉仕せしめたり、この神人は均しく曼殊院に屬すと雖も、祠官宮仕等と異なりて法躰にあらず、宮の執奏に依りて、従六位下國の介より従四位下國の守に叙任せらるゝを例とせり、(中略)年中六ヶ度に(正月元旦、同七日、二月廿五日、三月三日、七月七日、九月九日)七保の御供所に於て神饌を調理し、本社に獻ぜしのみ、かくて常には御供所を守護し、安楽寺天満宮に勤仕し、その餘暇は各農商の業を営み奉りしが、延享四年に至りて神人の稱を廃して、社人と稱せしめらるゝ事となりぬ、
(『北野誌』)
所在地:京都府京都市上京区北町(天神道)