円山公園をぬけて、神宮通を走る。浄土宗総本山の知恩院を右に見ながら、その山門の大きさに驚く。三条通の手前で神宮通を右折して、粟田神社の二の鳥居前。自転車を止め、参道の緩やかな階段登り、境内。木々に覆われた広い境内、京都北山方面を見渡せる高所に、なぜか懐かしさを覚え、盆踊りの光景が脳裏をよぎる。なぜだろう。
目指す朝日天満宮は本殿に向かって右側の末社の中で、多賀大社から分霊の伊邪那岐命、伊邪那美命と社を同じくする。蚊に煩わされる時期でなければもう少しのんびりしたいのだが…
由緒
粟田神社
粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素盞嗚尊ほかを祭神とする。社伝によると、貞観十八年(八七六)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(一一一三~一八)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応九年(一五〇〇)に吉田兼倶が再興したという。
本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化二年(一八〇五)六月に焼失後、文政六年 (一八二三)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(一七〇三)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である。
(京都市による駒札より)
朝日天満宮















所在地:京都府京都市 東山区粟田口鍛冶町1