2週間前から続く曇天で気温も17度。サイクリング日和とはとうてい言えないが、少しでもからだを動かそうと、近くの菅公巡りに外出。まずは、腹ごしらえ。駒込の「かぼちゃん」に行くが暖簾が掛かっていないため、近くの「麺処 きなり」に。汐そばを堪能して、上中里の平塚神社。住民の散歩道、上中里駅方面への通り道になっているようで、参拝客が途絶えない。菅原神社は、境内末社ながらかなりしっかりとした社。
一の鳥居から二の鳥居までの間の参道両脇が有料駐車場になっていて、車がびっしりと止まっている。神社運営の厳しさを考えると、こういうビジネスも致し方ないのかなと感じる。内田康夫の浅見光彦ミステリーシリーズに登場し、神社出口のすぐ脇にある和菓子屋「平塚亭つるをか」が気になるが、昼食をとったばかりなので自重する。
由緒
平塚神社
平塚神社の創立は平安後期 元永年中といわれている。八幡太郎 源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないため平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
徳川時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。
(境内掲示より)
菅原神社
詳細不詳。『新編武蔵風土記稿』には、平塚神社に関する記述の中に「末社豊島明神氷室明神天神合社、石神、稲荷二」とある。
祭神
菅原道真公とともに、大己貴命、豊島太郎近義命を合祀する。
別称
平塚天神社













所在地:東京都北区上中里1-47-1
外部リソース
Additions
『江戸名所図会』(国立国会図書館デジタルコレクション)
平塚明神社 平塚村にあり。当社縁起に伝く、往古八幡太郎義家兄弟、奥州前後十二年の戦い終はり凱陣のみぎり、この地に逗留ありて、城主豊島氏某(あるいは豊島太郎義近ともいへり)に鎧一領ならびに守り本尊十一面観音(長七寸、行基菩薩の作なり。いま城官寺に安置す)を賜う。その後元永年中、豊島氏城内清浄の地を択んで、かの鎧を塚に築き収め(塚の形、高からざるをもって平塚と号す。地名もまたこれによりて称す)城の鎮守とす。かつ社を営んで三連枝の像を安じ、平塚三所明神と号す(八幡太郎義家・加茂次郎義綱・新羅三郎義光。これ義家兄弟の武功を欽崇ひ、かつ武運を祈らんためなりと云々。別当を平塚山城官寺といひ、安楽院と号す(城官寺の来由はしばらくここに略す)。本地阿弥陀如来を安ず(赤檀仏毘首羯摩天の作、瑪瑙の玉座なり)。昔筑紫安楽寺の僧回国修行のみぎり、この像をここに安置せしとぞ。