川口市領家から川口草加線に出て、足立区方面。前回の舎人ライナー沿線参拝で、参拝できなかった天神社をめぐる。途中県境を越える手前に、「東領家(東スポ入口)」という名の交差点。某紙を想像したものの、「東スポーツセンター」の入口らしい。こんな感じでどうでもいいことを考えながらのんびりと自転車を走らせ、足立区入谷。住宅地の中に佇む小さな社殿が入谷の北野神社。境内向かいの住宅では、おばさんが布団を干しているのどかな光景。鈴緒や玉垣に刻まれた寄進者の姓が、近隣の住宅の表札に見て取れる。由緒を示す境内の掲示は氏子によるもの。近隣に大切に守っている神社だなあと実感。
由緒
かつて「入谷田んぼ」と呼ばれた一面の田園地帯で、土地は区画整理により大きく都市化を遂げたこの周辺にあって、当社は古くから「天神様」という通称で呼ばれ地元の人々の信仰を集めてきた。
菅原道真公を御祭神とし、京都北野天満宮の流れを汲むが創建に関する詳しい由緒は不明となっている。現在、当社には嘉永六年(一八五三)正月の銘がある幟が保存されており、少なくとも幕末に祭礼が行われていたことがわかる。明治十二年(一八七九)に作成された「南足立郡神社明細帳」(東京都公文書館所蔵)の記録では、当時の境内は六八坪(二二五㎡)、社殿は間口三尺五寸(一㎡)、奥行四尺(一・二m)で信徒は一一〇戸であった。昭和六十年(一九八五)に実施された土地区画整理事業で、それまで三角形であった境内は四角形に整えられ、社殿も二坪に格調、鳥居も御影石製に新調され現在に至っている。
神社を管理しているのは、「下」と呼ばれる村内の共同生活単位のズシの人々で、毎年交替で祭礼の世話役である年版を決めている。祭礼は正月と十月のそれぞれ二十五日である。正月は一年間の豊作祈願とともに、年頭の氏子顔合わせや年間の取り決め事の場でもあった。十月は幟も掲げられ、各家庭の手作りの供物が奉納された。出店も並び、農作物の収穫に感謝し大変な賑わいを見せていた。当社は神社や祭礼が、地域の中心であった時代をしのぶことができる貴重な例として、今も地元に息づいている。
また当社境内には、もと東側四十mにあった宝永七年(一七一〇)十一月に入谷村の人々が造立した庚申塔が区画整理によって移動し、保存されて過去の信仰を知るよすがとなっている。
(入谷北野神社氏子中による境内掲示より)







所在地:東京都足立区入谷1-11-13