#150. 曽根天満宮(高砂市)

大塩から西にひと駅の山陽曽根駅。JR線曽根駅との区別から表示駅名は山陽曽根駅だが、車内アナウンスは「曽根駅」とちょっとしたことに気づく。駅改札を抜けると目の前に鳥居と参道。まっすぐ伸びた歩道の先には神門と拝殿が見え、車道の両側には松並木になっている。境内に入るとその広さに圧倒される。拝殿の注連縄もかなりの大きさ。参拝、ご朱印をいただき、曽根天満宮の由来となっている菅原道真公手植えの霊松「曽根の松」の幹を祀った霊松殿。格子から薄暗い社殿を覗くとその幹の太さとうねりに驚く。松は、高砂市の「市の木」とのこと。

祭神

菅原道真公を主祭神に天穂日命・菅原公達を配祀する。

由緒

醍醐天皇の御代、延喜元年(九〇一)菅原道真公は冤罪を蒙り九州太宰府へ左遷された。その途次、伊保港(当社東南約二粁)に船を寄せ給い、当社西方の日笠山に登られ、播磨灘の風光を賞ぜられた。そして「我に罪なくば栄えよ」と祈念して山上の小松を植えられた。これが、霊松曽根の松で、現在も幹が保存されている。後、四男淳茂公が臣一三人と共に当地に至り、公縁りの地に社を建てお祀りしたのが創始と伝えられる。
天正六年(一五七八)豊臣秀吉の播州征伐の際兵火にかかり社殿を焼失した。ために平定後天正十八年に、寺沢越中守を奉行として本殿を再建し社領一〇石を寄せた。慶長一四年(一六〇九)には姫路城主池田輝政室督姫の寄進によって拝殿を建立、亨保二年(一七一七)神門の新築のほか境内の大普請が行われ、明和二年(一七六五)幣殿が建てられ拝殿も再建されて現在に至っている。
これより先、応安二年(一三六九)には、法眼実勝より油免田が寄進され応永一〇年(一四〇三)には、天神縁起絵巻が奉納されている。また京都所司代板倉勝重は、元和五年(一六一九)境内保護の制札を下し、慶安元年(一六四八)三代将軍家光が、朱印領三〇石を寄せ、累代の将軍はこれにならった。
また徳川光圀は、菅公廟記を撰し(貞亨三年=一六八六)霊元院は御撰の和歌を奉納(正徳六年=一七一六)されるなど、御神威は各地に聞え参勤交代の途次参拝する大名も多くなった。曽根の松も栄々として、文人墨客が多数訪れ、詩文を献上している。
(境内掲示より)

霊松曽根の松

菅公手植の霊松は、天正の兵火以後衰弱し、寛政一〇年(一七九八)枯死した。その幹は霊松殿に保存し、その枝を使用して一〇分の一の模型が作られている。枯死の直前、寛政七年に当社を訪れた小林一茶は「散り松葉 昔ながらの掃除番」との句を残した。
初代樹下に実生した二代の松は、明治初年には、幹まわり一二尺、高さ三五尺、枝張は南北二〇間、東西一五間の壮観を呈し、大正十三年天然記念物に指定された。
昭和二三年頃から、松喰虫に襲われ、同二七年に枯死した。三代の松は、それと前後して枯死、四代も松喰い虫の猛威を受けて枯れ、現在は五代の松を育成している。

所在地:兵庫県高砂市曽根町2286-1

外部リソース