浜の宮駅から東経135度、日本標準時子午線がホーム上を通る人丸駅。観光客らしき人たちは、明石市立天文科学館を目指し、改札口を出て北に歩いていくが、自分は南側。会社の元上司M氏の地元は、明石市立天文科学館の近くだったと言ってた気がする。
線路沿いに3分ぐらい歩くと、境内裏手。国道2号線に出て境内に。菅原道真公は、大宰府下向の途中でここ明石の駅舎(うまや)に立ち寄り、明石の駅長(うまおさ)の出迎えを受けたという由緒のある場所。菅公足跡にある社だが、こじんまりとした質素な神社。境内には車も止まっていて生活臭が漂う。目当てにしていた「菅公踞石」は本殿の脇、玉垣に阻まれて近づいて見ることはできない。現代の波に洗われそうになりながらも、しっかりと残り続ける社。1115年前、延喜元年の菅公叩扉を想像しながら、還向。
駅長莫驚時変改(駅長驚くことなかれ時の変わり改まるを)
一栄一落是春秋(一栄一落 これ春秋)
(『菅家後集』*この詩、ある僧侶の書中に在り。真偽を知らず。然しかれども後のために書き付くるところなり)
別称
「休天神社」
由緒
延喜元年(九〇一)、菅原道真公太宰権帥に任ぜられ筑紫に左遷の途すがら、明石の地を過ぎ給いし時、明石の駅長は之を迎え其の従前と変る御姿を歎く。道真公その志を喜んで、楼の傍の石に休息し給い、駅長に詩を賜う。「駅長驚くなかれ時の変り改まるを一栄一落これ春秋」
延喜三年(九〇三)二月二五日、道真公配所に於て薨去。駅長之を聞き哀慕にたえず、かの道真公休息の石を記念し傍に祠を建てて之を祭った。
後に、明石城主松平日向守信之、或時紫式部の源氏物語を読み菅公の才と忠を歎じ、特に恩賜の御衣の詩に感じ、神社を建てんとの心を決し、その娘も大いに之に賛じ、延宝七年(一六七九)、家臣五九人もその資を献じて造立した。
(兵庫県神社庁ホームページより)



















所在地:兵庫県明石市大蔵天神町8-2511
Additions
明石の駅家のあった場所は諸説あり、当社から800m北にある太寺2丁目バス停の近くには、「菅公旅次遺跡」という石碑が建つ。
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