地方が元気だったころの昭和の雰囲気が残るアーケード商店街・水道筋商店街を抜けて、水道3丁目のバス停。そこから神戸市バスに乗って山幹通り(阪神間山手幹線)を西へ、終点の石屋川車庫前で下車。さらに、徒歩で山幹通りを歩いて、石屋川を超え、綱敷天満神社。参拝は東側の横参道。神戸のもう一社の綱敷天満宮、須磨の天神さんと同様に社殿は朱塗り。六甲山から切り出された花崗岩、つまり御影石の産地の近く、またこの御影石を加工する石材屋が川沿いに軒を連ねたことに名前が由来する石屋川の近くということか、境内には、十二支の石像、3体の御神牛など石彫りの奉納品、縁起物が多いようにも感じる。
この社もまた、菅原道真公の足跡を由緒としている。本社を参拝、御朱印をいただこうと思うが、宮司は不在。表参道から還向する。一の鳥居もまた朱塗りの新しい鳥居。1995年の阪神・淡路大震災の前には石造りの巨大鳥居があったとのこと。その時の鳥居に掲げられていた石の神額が、あたらしい鳥居の横に、大震災の記憶を残す石碑とともに立てかけられている。1995年1月17日、当時社会人1年目が終わろうとしていた時、東京でテレビ越しに見た震災光景を思い出す。当時のニュースで、ここ東灘区は火災・倒壊など神戸市のなかでも甚大な被害を受けた区だと言っていたような記憶がある。
祭神
菅原道真公を主祭神に、別雷大神、蒼稻魂大神を配祀する。
別称
「御影の天神さま」
由緒
太古は、天神山(現・御影山手)の荘厳な祭壇地に祭祀され、中世に現世の鎮座地(菟原郡覚美郷石屋村八色岡・うはらぐんかがみのさといしやむらぐさおか)に遷された。
社伝によると、『茨城国造の天道根命が、天神山に別雷神を祀るに始まり、天津彦根命に伝えられ子孫代々鎮祭す。』とある。
次に『用明天皇の御代、聖徳太子が四天王寺建立の時、大和の兵衛、山城の太兵衛を伴われよき石を求めて当地を訪れた。石屋村の祖・山背王を石匠となし、石を切り出させたところ、見事な鉱石が出たので御影石と名付け、自ら「蒼稲魂」と刻み、雷神の御社に合せ祠る。』とある。この地に留まった「大和の兵衛」は「長谷姓」を、「山城の太兵衛」は「時枝姓」を名乗ったので、かつて石屋村は長谷・時枝の姓が多かった。
そして、『後掘河天皇の御代、菅公九世の孫、菅原善輝公が太宰府の神官に任ぜられ筑紫に赴く途次に当社を訪れ、その昔、道真公が讃岐へ下向された時や、太宰府へ左遷された時に参拝された特にゆかり深き地として社殿を建立し、配流の身の道真公を案じ石の上に綱を敷いてお迎えした由緒を以て「綱敷天満宮」と社名を定め、雷神の御社の相殿に合わせ祀る。』とある。
(兵庫県神社庁ホームページより)



















所在地:兵庫県兵庫県神戸市東灘区御影1丁目22-25
外部リソース
- 綱敷天満神社 (神戸市)(ウィキペディア)