三条通を東進、地図アプリのナビゲーションに従って、京都市動物園の西側から岡崎町。よくよく後から地図を見ると、こんな複雑な道を通らなくてもよかったと後悔。目的の満願寺は境内に文子天満宮がある。6月の菅公巡拝では、北野天満宮末社の文子天満宮、上京区北町の文子天満宮元社と玉房稲荷と合社の五之保天満宮、下京区の文子天満宮とそれぞれの関係がわからず脳内大混乱に陥ったが、岡崎の文子天満宮もまたその一つ。
ここもまた神仏習合の名残を残し、境内には歴史的な奉納品の数々が残る。扁額には、「天満大自在天神」とあり、一部ネットで流布されている「多治比文子を祀った」という内容が誤謬と言える。ただ、複数の文子天満宮の謎は解決しない。
女性映画の巨匠と呼ばれ、虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描写し、国際的にも評価の高い溝口健二は、ここ満願寺に分骨し、本堂横には溝口健二の碑が佇んでいる。
満願寺を後に大豊神社を目指し西に進むが、岡崎町にたくさんのラブホがあることに気づく。平安神宮の東、京都博物館の北東、京都市動物園のすぐ北とは思えない…
由緒
満願寺は示現山と号する日蓮宗の寺院で、もとは西ノ京にあって、天慶三年(九四〇)に北野朝日寺の最珍を開山として創建されたと伝える。当初は真言宗に属し、北野天満宮の御供所であった北野七保のなかの五ノ保社ともなっていた。その後、元禄十年(一六九七)に日蓮宗へ改宗いるとともに、元禄十五年に現在地へ移転してきた。
本堂は、移転後まもなく元禄十五年から宝永が仁年(一七〇四)にかけて造営されたもので、京都市内に残る日蓮宗の一般寺院本堂のなかでは古い方に属する。建築的には、桁行三間・梁行一間の身舎の四周に一間幅の裳階をまわして背面に内陣部を突出し、さらにその後方に土蔵造の奥陣を付設した複合建築で、変化に富んだ外観をみせている。また、その内部の力強い空間構成には近代的特色がみられ、日蓮宗本堂の近世遺構の一例として貴重である。
境内にはこのほか、当寺が現在地へ移転してきたときのものとして鐘楼、手水舎、表門、文子天満宮本殿・拝殿などが残っており、位置が一部変化しているものの、江戸時代中期における日蓮宗の一般寺院の寺観をよく伝えている。
(京都市による駒札より)











所在地:京都府京都市左京区岡崎法勝寺町130
Additions
『拾遺都名所図会』
満願寺 下岡崎東側にあり。開基は日亨上人、元禄年中の建立なり
閼伽井 堂前の南にあり、是法勝寺の閼伽井といふ
文子天神 当寺の鎮守なり、堂前の北にあり。初は北野にあり、後世こゝにうつす。中御門院御祈願ありて社壇拝殿御造営あり