#176. 文子天満宮&北野天満宮(神明神社)

頂法寺から烏丸通りを南下。車道の路肩を自転車で飛ばす。地下鉄四条駅から綾小路通を東に向かう。飲食店が軒を並べる通りの一角にひっそりと佇む神明神社は、北野五ノ保の文子天満宮が合祀されているとのこと。狭い境内を注意深く観察するが、京都市内に数多くある「文子天満宮」との関係を想像させる手がかりはなく、「文子天満宮」をめぐる謎は謎のまま。本殿向かって右側にある末社の慎ましい扁額を注意深く見てみると、一番右側に「北野天満宮」。本殿に、文子天満宮として菅原道真公が祀られるとともに、末社にも北野天満宮として菅原道真公が祀られている。北野天満宮には境内社に文子天満宮があるが、これとは逆の関係。
神道では、神霊は無限に分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされるということは知ってはいるものの、同じ境内に同じ神霊が二柱あるというのは、やはり不思議な感覚にとらわれる。

由緒

当地は平安時代末期、近衛天皇(在位一一四一〜一一五五)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で、「四条内裏」または「四条東洞院内裡」と言われた。この邸内にあった鎮守の社が神明神社で、天照大神を祭神とし、創建年代は明らかでないが、平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。
社伝によると、近衛天皇の時代、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺」という怪鳥が毎夜、空に現れ都を騒がせた。弓の名手であったという源頼政は退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており、今でも祭礼の時に飾られる。当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。
その後、天台宗の護国山立願寺円光院という寺によって管理されていたが、明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され、それ以来、神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎神明」とも言われた。
また、当社には豊園小学校内(現在の洛央小学校)に祀られていた文子天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。
祭礼は九月の第二土曜日とそれに続く日曜日である。
(京都市による駒札より)

文子天満宮

文子天満宮は菅原道真が九州で逝去した延喜三年(九百三年)の頃以降、京都に災害が相次いで起ったので当時の人々は怨霊の祟りだと信じていた。
天慶七年(九四二年)に右京七条二坊の多治比文子に「道真の霊をまつれ」との神託があり、近江の神宮と協力して今の北野神社を創建した。
天神というのは天変地異を起こす恐ろしい神であるが、学問の神として崇められるようになったのは道真が大学者であることを知った平安中期以降のことである。道真の霊が何故文子という女性にあらわれたか判らないが、文子天満宮は文子を祭ったのではなく、文子が祭った天神という意味である。
本校の文子天満宮は、明治三十年頃幼稚園と小学校の間の空地に祭られて学問の神として崇敬されていた。祭神は今なお現在神明神社に合祀されている。
(『豊園校創立百周年記念誌』「文子天満宮のこと」より)

境内末社の北野天満宮については、不明。

所在地:京都府京都市下京区神明町

外部リソース