小野照崎神社参拝後、さらに昭和通りを北上し三ノ輪。大関横丁交差点ちかくにある梅林寺。菅公巡拝開始初日の化用天神の経験から、寺の境内に社祠のあることが定着しているので今回は迷わない。犬がいることを警告する注意書きがあり、少しビビったが幸いにもその犬は留守中。境内では、住職と思しき方が、看板の掛け替えをやっている。「こんにちわ」と挨拶をして、綱敷天満宮を拝む。寺内の社なので、柏手は打たずに手をあわせる。
帰り際に門扉の模様が梅の花であることに気づく。菅原道真つながりではなく、梅林寺の寺名つながりの模様だろうけど。
別称
「箕輪天神」
由緒
禅宗曹洞派、常陸国新治郡宇治会村源然寺末、花嶽山と号す。古は龍源寺と号し、小塚原邊にあり。寺記に承応3年の起立といへど、開山天室修悦は文禄3年2月20日寂せしなれば、承応は当初へ移りし時の年暦なるべし。本尊釈迦を安す。其の後、綱敷天満宮。神体は此叡山法性坊尊意の作と云。境内の鎮守なり。(引用:『新編武蔵風土記稿』)
御神体の「木造綱敷天神坐像」は台東区の登録文化財。
曹洞宗花嶽山梅林寺は、はじめ小塚原(現・荒川区南千住)にあり、龍源寺と称していました。本像は、もと下総里見氏の鎮守で、慶長の里見家没落の際、家臣が下総平井村(現・江戸川区平井)に移し、やがて小塚原に祀られ、17世紀中頃に伊勢亀山藩士が、主君の病気平癒祈願のため、小塚原の本像とともに龍源寺を現在地に移し、梅林寺と名を改めたといわれます。安政大地震で、天満宮祠は全壊し、大正4年の勧進により建立、昭和42年本堂に移され現在に至ります。
本像は、ヒノキ材製で、像高20.8センチメートル、髪際高17.1センチメートル。束帯姿で、口をやや開き、顎髭を垂らし、眼をいからして綱座に坐る珍しいものです。室町時代末期に制作されました。
当寺には、九州で菅原道真が、綱座を勧められ我が身の哀れを嘆いたところ、土地の者が「これは帆綱で自分には命綱だから都の敷物に決して劣らない」と諌めたという伝承があります。綱敷天神はみな忿怒形をしており、不遇に対して怒る道真を現します。しかし、江戸時代後期には、為永春水ためながしゅんすい作・園の花そののはなによると、梅林寺綱敷天神を除災招福の神として信仰するように変わったことがわかります。(引用:「木造網敷天神坐像」台東区ホームページ)







所在地:東京都台東区三ノ輪1-27-3
外部リソース
- 曹洞宗 梅林寺(綱敷天満宮に関する記載はない)
Additions
台東区の化用天神を参拝して以来、寺の境内にある社祠の参拝方法がよくわからなかったが、やはり同じ疑問を持つ人はいるらしい。その答えは、Yahoo! 知恵袋「寺の境内にある社殿は二礼二拍手一礼でよいの?」を参照。