#33. 関屋天満宮(仲町氷川神社境内)

白鬚橋を渡り、墨堤通りに沿って北千住方面に。道沿いの団地以上に高い建物はなく、東京都23区内なのに空が広いなぁと感じながら自転車を走らせる。首都高速6号線をくぐる手前あたりから道が細くなり、車に注意しながら走る。JR常磐線を超えたあたりで右に折れると、鬱蒼とした木々が見え、ここが関屋天満宮を末社に祀る氷川神社。

別称

「関屋天神」

由緒

氷川神社

村持なり、當社は元牛田にあり、何の頃にや水災をさけんが為にここに移せりと、今もかの地に社跡遺れり。(『新編武蔵風土記稿』)

関屋天満宮

小名関屋にありし社を移せり、故に鳥居に関屋天満宮と扁す、神軀菅公の像を安ず、これ自作なりといへど覚束なし、又社内に古碑あり、碑表に元応元年二月十九日、行年七十五歳、日朗と彫り、裏面に子育鬼子母神云々と刻す、日朗は日蓮高足の門人日朗にや、覚束なし、碑名の様至て卑俗に見ゆ。(『新編武蔵風土記稿』)

鎮座のはじめは、村上天皇の時代、天暦三年の二月(949)で御神体は菅公の自作百体彫刻の内の一体であると伝わり、元関屋の里に在って、関屋天神と申しました。
新編武蔵風土記 文政十一年(1828)の編纂によれば、源頼朝が奥州平定後の防御の地として千住の地に関所を設けたことにより、関屋の地名が起きたといわれ、この地はその昔、名主庄左ェ門の所有地で、この辺すべて水田や茅野でしたが、度々の出水により、天明七年八月(1787)当社内に御遷宮されました。その跡の印として小祠を建て和歌の名所に「関屋の里」と詠まれたのはこの辺りと思われます。また塚の周囲の葦がみな片葉であった為に、片葉の天神ともいわれていました。
古くから学業成就の神として里人に親しまれています。(境内掲示より)

所在地:東京都足立区千住仲町48-2

Additions

『江戸名所図会』関屋天満宮(国立国会図書館デジタルコレクション
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おまけ2

関屋天満宮に社はなく、ステンレスの賽銭箱と社があったと思われる場所に、依り代が立てられている。後からネットで知ったが、関屋天満宮の社はシロアリ被害にあい、氷川神社本殿への被害拡大を防ぐため、解体されたということ。境内には梅紋があしらわれた又き巴が置いてあった。