#41. 北野神社(氷川台氷川神社境内)

成増の菅原神社参拝後は、自宅方面に向けて帰宅の途につく。途中、氷川台の氷川神社に北野神社があるということで、この神社を今日の最後の参拝先にする。成増から練馬の陸上自衛隊駐屯地、平和台を通って氷川台に。氷川神社は横参道から参拝。本殿右側の境内社が並ぶ中に北野社の神額のある鳥居を見つける。奉献された赤い鳥居が二つならびあたかも稲荷神社のよう。

由緒

氷川神社

本社の創建は、社伝によると長禄元年(1457)、渋川義鏡が古河公方足利成氏との戦の途上、下練馬で石神井川を渡ろうとした時、淀む所にこんこんと湧き出ている泉を発見(これがおはま井戸)、兵を休めて須佐之男命を祀り、武運長久を祈ったのに始まるという。後に延享年間(1744-48)に海老名左近が現在地に遷して、51字の総鎮守になったと伝える。明治5年郷社となる。
古い石造物としては、延享4年(1747)銘の角柱型水盤、安永4年(1775)銘の鳥居、天明7年(1787)銘の狛犬、文久年中(1861-64)銘の力石がある。社殿に面しては神楽殿が建つ。本殿は石造の覆屋の中にあり、その裏には各町会の神楽庫が13棟並ぶ。他に征清記念碑(明治30年)、日露戦役記念碑(明治43年)がある。(「練馬の神社」練馬区教育委員会)

北野神社

北野神社の由緒は不明。『北豊島郡誌』には記載がないが、『新編武蔵風土記稿』の下練馬村の章には「天神社」が、光傳寺(現存)、威徳院(豊島園附近・金乗院に吸収)、高徳寺(北町5丁目歩道橋附近・金乗院に吸収)に天神社が祀られていたことを示す記述の一方で、同書、氷川社は稲荷社・疱瘡神社を祀るとする記述。
明治期の廃仏毀釈、神仏分離政策の中で、これらの寺院に祀られていた天神が、氷川神社に遷座したと考えられないか? なお、現在北野神社と社を共にしている須賀神社は、金乗院の門前に存在し、文久元年(1861)に大火を起こした須賀神社という推測もできる。

所在地:東京都練馬区氷川台4-47-3

外部リソース