西町北野神社から青梅街道を新宿方面に。中野警察署から住宅街に入り、大久保通りに出て、東進。大久保通りと山手通りの交差点近くにある中野氷川神社に。この交差点の名前は「宮下」。表参道は長い階段で自転車を止めておく場所もなかったので、周囲を一周して、山手通り沿いにある横参道から参拝。朱塗りの本社と木々の緑色がビビッド。本社の参拝後に、境内の北野神社を参拝。
御朱印をいただきに社務所に。いただいたのは、参拝日を自分で記入する印刷済みの御朱印。こういうタイプの御朱印もあるのか…
由緒
氷川神社
この神社は、旧中野村の総鎮守社で、創建は長元三年(一〇三〇)に武蔵一の宮である埼玉県大宮市の氷川神社から勧請したものと伝えられています。室町時代の応永年間に社殿を改築した伝えもありますから、中野村の開発とともに鎮座も古いことがうかがわれます。
祭神は須佐之男命・稲田比売尊・大己貴尊の三柱で、例祭は九月十四・十五日ですが、もとは二十六・二十七日の両日でした。
江戸時代には総護摩行が行われ、湯立神楽をあげ、淀橋・上宿・下宿・西町・仲宿・打越・囲・原の氏子がそれぞれの地区の幟や提灯の美を競いました。豊年には、獅子舞・相撲・力石くらべなども行われて、近在をあげての盛大な行事になっていました。明治・大正期の巡行はいまも語り草になっています。
拝殿にある中世の石の狛犬をはじめ、境内には中野の歴史を語る多くの遺品があります。(中野区教育委員会掲示より)
当社は、旧中野村の総鎮守社で、創建は長元三年(一〇三〇)に源頼信が平忠常を征討のさい、武蔵一の宮の氷川神社の神霊を勧請したことによる。応永年間(一三九四-一四二八)、宝仙寺中興の僧聖永が改築し、文明九年(一四七七)には太田道港が練馬・石神井両城に豊島兄弟を攻略するにさいして戦勝を祈願し、凱陣の後、社殿を造営して報賽した。江戸時代には護摩修行が行なわれ、湯立神楽をあげ淀橋・上宿・下宿西町・仲宿・打越・原の氏子がそれぞれの地区の幟や提灯の美を競いあった。豊年には獅子舞・相撲・力石競べ等も行なわれて近在をあげての盛大な行事となっていた。明治・大正期の華麗な神輿や山車の巡行は今も語り草になっている。明治十年拝殿が同十五年本殿を改築し、昭和三年表参道を開き、神橋を架設する等境内を整備した。(引用:『東京都神社名鑑』)
北野神社
由緒は不明。近辺にある寺院から、明治の神仏分離政策の際に遷座したものか?『東京府豊多摩郡誌』を当たってみたが、それらしき記載はない。












所在地:東京都中野区東中野1-11-1
外部リソース
- 氷川神社 (中野区東中野)(ウィキペディア)
- 『東京府豊多摩郡誌』中野町(国立国会図書館デジタルコレクション)