前日、かなりの距離を走ったので、今日はひと休みかとも思ったが、7月の海外旅行で必要な国際運転運転免許証を取得するために江東運転免許試験場に自転車で。帰り途中にある天神様の参拝を計画。国際免許取得後に開店直後の「東京タンメン トナリ」木場店で腹ごしらえ。長崎ちゃんぽん好きにはたまらない味。
横綱力士碑のすぐそばに自転車を止める。本社を参拝し、御朱印をいただいた後に本殿の西側裏手にある天満天神社に。長屋のような社に6柱の神様が祀られている。天満天神宮は向かって左から2番目。同じ社には、大相撲の祖とされ、菅原家の祖族である土師氏の始祖と伝えられる野見宿禰も祀られている。野見宿禰はまた、相撲の始祖とされるとともに、相撲の神。
由緒
富岡八幡宮
長盛法印は寛永元年(一六二四)のころ、ある夜、夢中に託宣があり、「われ永代島に鎮座あるへし」とあり、数度霊夢があり、長盛は一社の宮をたて、八幡宮を勧請し、寛永八年(一六三一)のころにようやく再興の本意をとげた。ご神体は菅原道真の御作で、源頼政が崇敬し、その後、いくつかの武家を経て、太田道灌も崇敬し、下総国にあったものがご神体という(『江戸名所記』)。また、別の説では、長盛法印には先祖伝来の弘法大師作の八幡大菩薩像があり、常に信敬し、この像が「汝等こそ我を信ずることいとまめやかなり、されば土地の良縁あれば、心を起こして東行を企つべし、必ず汝が願望を成せん、我も伴いてかしこに至り国家を守り蒼生を益すべし。而して武蔵国に永代島というあり、わが寓居えんところには白羽の矢たちたらん」 との夢告をし、長盛は八幡像を携えて、この地に着き、土地の者に案内させ探すと、葦の間に小飼があり、中には白羽の矢が一本納められていた。長盛はここが霊示の地として、八幡宮を勧請して社殿を造営し、富岡八幡宮の新年開運白羽の矢(吉事あたり矢・凶事はらい矢)はこの緑によるという(『富岡八幡宮縁起』)。
天和二年(一六八二)の火事後、貞享二年(一六八五)、再建された永代寺の客殿に一六、七の児童が現れ、「我寺者一度焼失仕候ニ如元之在候、如何なる御事そと。再三尋申候へハ、太子御笑含、今度之地形所をハ富賀岡と名付よと被仰候」といわれ、富岡の称は貞享二年(一六八五)八月三日永代寺四世周光の夢に聖徳太子より口授されたものであるという。なお、周光は高野山で修行し、慶安四年(一六五一)に永代寺に入り、中興開山と伝えられている(『御府内備考続編』)。明治にはいると永代寺一六世周徹は還俗して神社名より富岡を名乗り、八幡宮の神官となる。富岡の名称をもたらした聖徳太子社は幾度の災難後も境内に祀られている(引用:『江東区の民俗 深川編』)
天満天神社
由緒は不明。富岡八幡宮の創建者・長盛法印は菅原道真公の後裔と言われること、本社のご神体が菅原道真の作といわれていること、あるいは菅原氏の氏族・土師氏の氏祖野見宿禰と関連があると妄想。
別称
「深川天神」



















所在地:東京都江東区富岡1−20−3
外部リソース
- 富岡八幡宮(ウィキペディア)
- 富岡八幡宮へようこそ
おまけ
『江戸名所図会』富岡八幡宮(国立国会図書館デジタルコレクション)