#61. 天満宮(上御霊神社境内)

水火天満宮前の上御霊通を東に向かい、烏丸通りをまたいで、上御霊神社。崇道天皇を始め政争に巻き込まれて憤死した人々の怨霊を鎮めるために創建された社。戦国時代突入のきっかけとなった応仁の乱の前哨戦が境内の森で行われたのは因縁めいている。天満宮社は本殿向かって左側に並ぶ末社のなかのひとつ。由緒は不明だが、御霊信仰に関連した背景があるのかもしれない。

由緒

御靈神社(上御霊神社)

祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備をはじめ十三柱の神霊を祀る。
この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(七九四)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神五社が増祀され、現在に至っている。
平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除の霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄付品を多数蔵している。
本殿は享保十八年(一七三三)に下賜された賢所御殿を復原したものといわれている。
また、境内は「御霊の杜」と呼ばれ、応仁元年(一四六七)正月十八日に畠山政長と義就の合戦が行われ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。(京都市の境内掲示より)

天満宮

不明

所在地:京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495

外部リソース

Additions

『都名所図会』上御霊社(国立国会図書館デジタルコレクション)

上御霊社(かみごりやうのやしろ) は平安城鞍馬口通の南にあり。
祭る神は早良親王・伊予親王・藤原夫人・文大夫・橘逸勢・藤原広嗣・吉備大臣・火雷神等の八所御霊なり。
朱雀院の御字、天慶二年に鎮め奉る。いにしへこの地は上出雲寺なり。故に出雲路の御霊ともいふ。例祭は八月十八日。
中御霊は京極通蘆山寺の南にあり。当社の御旅所なり。
早良親王は光仁帝第二の皇子なり。延暦四年九月、朝廷を傾け奉らんと議をめぐらしける。
その聞えありければ淡路国に左遷し、同国高瀬に至り気絶えて薨じ給ふ。
怨霊崇をなしければ、同十九年七月に崇道天皇の追号を宣下し給ふなり。紀伊郡藤森神社と同神なり。
伊予親王は崇道天皇の御子なり。平城帝の御時、逆心あらはれしかは川原寺において飲食を通ぜず終り給へり。
藤原夫人は崇道天皇の后吉子と号す。伊予親王の御母なり。
文屋宮田九は承和十年十二月に謀叛の企によって伊豆国へ配流し、卒し給へり。
橘逸勢は右中弁従四位下入居の子なり。嵯峨帝の御時の能書にして、本朝三筆のその一人なり。
仁明帝の御字、承和元年七月に謀叛の事ありて、これも伊豆国に流罪せられ、九月に死し給へり。
橘広嗣は藤原宇合の第一子なり。大宰府において叛逆ありしかは、大野東人宣旨を蒙り、馳せ向ひて戦ひけり。
広嗣敗北して自ら刀を以って首を落す。その頸忽ち天に昇り、空中にして赤鏡となる。見る人ことごとく即死す。
豊後国鏡宮、肥前国板櫃明神等、この霊をまつれり。
吉備大臣は右大臣正二位なり。本朝無双の才人。元正天皇の遣唐使なり。唐土にして野馬台の文を読まんとするに文議暁しがたし。
時にわが朝初瀬の観世音を心中に念ぜり。その時蜘蛛くだりて糸を引きて教へければ、容易よめりとかや。
天平五年に帰朝し、光仁帝宝亀六年薨じ給へり。年八十二歳。
火雷神は北野天満天神なり。観音堂の本尊は聖徳太子の作にして、聖観世音なり。これ則ち出雲寺の本尊といふ。

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