#72. 錦天満宮

寺町通を南下、京都市役所を通り御池通を超えてアーケード街に突入。本能寺が入り口近くにあるが、豊臣秀吉の京都改造時にこの場所に移転させられたので、本能寺の変のあった寺ではあるが、事件の起きた場所ではない。途中の八方焼本舗小松屋でわらび餅を食べる。新京極通に入り錦天満宮。それほど広い境内ではないが、買い物ついでに訪れたと思われる参拝客て、ごった返す。機械仕掛けの獅子舞型おみくじロボットが目立っている。錦天満宮は、一の鳥居が両側のビルに食い込んでいるということで、2015年放送の『ブラタモリ』でも取り上げられている。この後、河原町の火除天満宮に向かうが門が閉められていて参拝を断念。雨脚も強くなってきたので、一旦宿に戻る。京都初の天満宮巡りの1日目は終了。

由緒

菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まる。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の都市計画のため、寺とともに錦小路東端の現在地に移転した。その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。
明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残された。

境内の駒札では、「当天満宮は平安時代前期の十世紀初頭、学問の神となられた菅原道真公(菅公)の生家『菅原院』に創建されました」とあり、創建が、歓喜寺の創建以前とも取れる記載となっている。菅原院後には、菅原院天満宮神社が現存していることを勘案すると、「菅原院にあった歓喜寺に菅公薨去後ののち、菅原父子を祀った小祠が建立され、その後、小祠を残して、歓喜寺が六条河原院の跡地に移転して、天満天神を祀った。これが錦天満宮。菅原院跡に残った小祠が菅原院天満宮神社となったと妄想できる。『北野誌』全国天満宮所在地一覧には菅原院天満宮神社の由緒として、「菅贈太政大臣御臣御所或曰参議是善卿家也當時号歡喜光寺」とあり、歓喜寺は、菅公薨去以前から存在していたと取れる。

所在地:京都府京都市中京区 新京極通四条上中之町537

外部リソース

Additions

『都名所図会』錦天神社(国立国会図書館)

錦天神社(にしきのてんじんのやしろ) は京極錦小路東行当にあり。祭る所天満天神なり。
鳥居の額は天満宮と書して、青蓮院尊英法親王の筆なり。拝殿の額は宝鏡寺宮理秀(りしゅう)尼公の筆とぞ。
宗旨は時宗にして、紫苔山歓喜光寺河原院六条道場と号す。開基は一遍上人の坊、聖戒(しょうかい)上人なり。
元亨3年2月15日寂す。
当寺の旧地は東六条本願寺の境内、枳殻(きこく)馬場なり。
左大臣融(とほる)公の住み給ひし河原院を改めて寺となし、六条道場とす。
千鳥池 当寺庫裡の後にあり。河原院にありしをこゝにうつす。
塩竃社(しほがまのやしろ)千鳥池の中島にあり。祭る所河原左大臣なり。
そもそも当社は寺内の鎮守にして、古は左大臣融公を祭れり。中頃より天満宮を勧請しけるなり。

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