#84. 文子天満宮

西念寺での特別な経験の余韻に浸りつつ、高倉通、六条通、間之町通を通って文子天満宮。天満信仰発祥の地で北野天満宮の前身をうたう石碑。ここでも神主さんと思しき初老の男性に声をかけられ、天満宮の由来や、全国の天満宮の集まりがあることを教えてくれる。京都の男性は話好きなのだろうか。
菅原道真公を祀る文子天満宮は今回の天満宮巡りで元社を含め3社。菅公の託宣という由緒を同じくするこの3社の関係がわからず、こののち途方に暮れることとなるが、多治比文子を名を持つ人物は複数名いたというのが自分の妄想仮説。
雨も止んだ。名残惜しくまだまだ訪れたい天満宮もあるが次の機会とする。これにて、4日前からの関西ラウンド、昨日からの京都ラウンド終了。レンタルサイクルを返却して京都駅に向かう。

祭神

菅原道真公と多治比文子を祀る。

由緒

祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮二十五社の一つに数えられている。社伝によれば、太宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜三年(903年)五十九歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。
しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小祠を建て道真を祀ったといわれている。
これが当社の起りで、北野天満宮の前身とも言われてる。
以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。現在の社殿は、大正七年(1918年)に造営されてものである。なお、毎年四月十六日には、例祭がとり行われる。
(京都市による駒札より)

また、託宣とは別の由緒も見られる。

文子天満宮の御祭神は贈太政大臣正一位菅原朝臣道真公であります。北野天満宮御造営より前すでに奉祀せられていた由緒ある神社であります。
道真公は仁明天皇の承和12年6月25日(845年)京都菅原院で御誕生され、幼少の頃より聰明にして特に至誠の御心篤く、歌や詩にすぐれ32才で文章博士(もんじょうはかせ)になり遂に右大臣に任じ、57才の延喜元年正月7日(901年)従二位に任ぜられましたが、左大臣藤原時平等のざん言により同月25日太宰権帥(だざいのごんのそち)に勅命が下り太宰府に御左遷されることとなり、御出立の際、御乳母七条坊門多治比の文子の方に離別を告げられました時、文子の方がこの上なく歎き悲しむのを哀れと思召し、公は御自分で彫られました御像を授与されました。(当神社は文子の方の旧宅地であり、公が御立寄りの際、腰掛られた腰掛石が現存する)斯て延喜3年2月25日(903年)59才で配所において薨去(こうきょ)されましたことを承るより、文子の方は御遺徳を偲び庭前に小祠を造り御神像を祀り朝夕に仕え奉られた。これが当神社の源起であります。
後、公の冤罪であった事明白となり一条天皇の御代太政大臣正一位を贈られました。天慶3年7月16日文子の方の御示現(おつげ)により天暦元年6月9日北野(今の北野天満宮)に鎮座され、我国の鎭護の神となられました。
爾来、慶長7年浄土真宗教如上人東本願寺創建の際、当社地も寺領地に組入れられ他の神社は総て寺領地外に移転の止むなきに至るも、当神社のみは前述の由緒により依然奉祀せられました。東本願寺第二世宣如上人よりは自筆の神号並に名号を奉納せられ、特に崇敬浅からぬものがありました。この2軸は当社の神宝として現存しています。宝物には菅公の御太刀、御沓等を伝えて来ましたが、幕末火災の為焼失し、昔の姿を失うに至ったが、寺領地内の神社として旧跡を維持し、特に北野天満宮前身の由緒ある神社として崇敬篤く明治になって社格を村社に列せられました。今の御本殿諸建造物は大正7年に造営し、昭和12年に隣接地買収し、境内地の拡張を図り今日に至っています。
(文子天満宮略縁起 御縁起 (平成祭礼データ))

『北野誌』に記載された由緒は、後者と同様託宣に言及なく、御像を授与との記載。

勸請年月不詳ニ社號改稱等の儀ハ無御座候當社ノ儀ハ菅原道真公左遷ノ時乳母文子親子ノ居宅只今ノ社地ニ御座候處御小休ミニ相成御發途ノ節御形見真像ヲ文子ニ賜フ只今ノ社地文子親子ノ舊宅地ニ御座候明治十年十一月十八日村社ニ列セラル

所在地:京都府京都市下京区間之町通花屋町下ル天神町400

外部リソース