白山神社の後、大塚に。大塚は比較的よく訪れているが、ここに、天祖神社があり境内に菅原道真公を祀る境内社があることは、最近までまったく知らなかった。境内横の入り口に自転車を止めて参拝。お昼時だからか、老人や親子連れの参拝客に混じってスーツや制服姿の会社員がちらほら。境内横のベンチでお弁当を食べている女性も。
菅原社は本殿に向かって左奥。熊野社、厳島社との合祀。由緒は不明。
参拝後、昼食。大塚だと選択肢はたくさんあるが、気分はラーメン。創作麺工房 鳴龍か、煮干しそば 暁かで悩むが、暁に決定。無化調で煮干しが香るスープは、じんわりとしみわたる旨さ。
由緒
天祖神社
天祖神社は今からおよそ六百数十年前、即ち元亨年間、当時武蔵国豊島郡の領主であり、豊島氏中興の祖といわれた景村のとき、巣鴨鎮護の神として祀られた、と伝えられている。
江戸時代、鬼子母神の信仰が旺んになり一時十羅刹女神を併せ祀ったこともあるが、明治になって分離された。当神社は神明宮ともまた神明社ともいわれていたが、明治5年、ご祭神の伊勢の皇大神宮が、天津御祖の大神であるところから、天祖神社と改称され今日に至っている。
旧暦の神嘗祭(伊勢の三大祭の一つ)にあたり祭儀が古くから巌修され、毎月七日、十七日、二十七日は通称縁日として昔から門前市をなす賑わいを呈している。
天明年間改築された旧社殿は昭和のご大典記念事業として昭和8年に造営され壮麗を極めたものである。その後第二次大戦も終りに近い昭和20年4月の大空襲によってその一切が烏有に帰した。その際境内にあった樹齢五百年を数えるご神木夫婦銀杏も戦火を被り、近年ようやく芽吹いて繁茂するようになったものである。
昭和25年復興奉賛会が結成され同年ひとまず拝殿が造営された。その後区画整理がはじまり造営は一時中断され、境内も三分の一に縮小されることとなった。三十八年にいたって区画整理が完了をみたので氏子・崇敬者の協賛を得て造営工事に着手することとなり、昭和39年8月、改めて復興奉賛会を結成して翌40年8月起工し、ご本殿の造営、幣拝殿の修復、社務所並びに参集所の建設及び一連の附属設備工事を完了し、昭和43年9月、明治維新百年の意義ある年にあたり、造営竣工奉祝臨時大祭を執り行いここにようやく境内輪億の美をみるに至ったものである。
(豊島区教育委員会掲示より)
菅原社
厳島社・熊野社との三社合祀。由緒不明

















所在地:東京都豊島区南大塚3-49-1
外部リソース